スタンド・バイ・ミー/12歳のころの友達はもうできない


"I never had any friends later on like the ones I had when I was twelve."


誰もが少年期の思い出に特別な感情を抱きます。
かくいう僕も、木々の間をぬってクワガタを探し、丘をぬけ隣町で迷子になりもしました。その不自然なくらいにキラキラした思い出には、常に欠かせない存在として「友達」がいます。でも、高校から地元を離れ、大学で東京に出て就職した僕は、もう小中の友達とは連絡をとっていません。
スタンド・バイ・ミーという映画は、そんな僕らにもう戻れないあの頃を思い出させるのです。キラキラした思い出と最高の友達を持ちながら、その友達と離れてしまった僕らに。
しかし、なぜ「12歳のころのような友達はもうできない」のでしょうか?
※以下の文でスタンド・バイ・ミー本編の内容に言及します

僕らは不完全で、大きな隙間を持っていた

主人公のゴードンは、愛情に飢えていました。両親の関心は、専らアメフトのスター選手である兄デニー。ゴードンの作る物語には一切興味を示しません。そのデニーはゴードンに優しく接し、ゴードンもデニーを頼りにしていました。
しかし、不幸にも交通事故で亡くなる兄のデニー。そのことに絶望し、ゴードンに関心を示さない両親。ゴードンは益々孤独を抱えます。クリスとテディも、それぞれ家庭に問題を抱えています。
この家庭が埋めてくれなかった隙間。それが彼らの友情を強固なものにしたのでしょう。

少年時代の僕らは、とても不安定で弱い存在です。生まれてしばらくは家族に依存しきって、守られて、信じきってすごします。
成長と共に自我は芽生え、完全な依存ではなく、自由を求め始めます。つまり、自分のことは自分で決めたいと考えるのです。でも、僕らは親から離れて生きられるほど強くありませんでした。それは金銭的な意味だけでなく、仮に自由を得ても、何をすべきか確信が持てるほど自分を確立できていないのです。
そこで親の支配から離れるために、その隙間を一時的に埋めてくれる存在が必要です。多くの場合、それは友達なのです。

ゴードンとクリスの関係は端的な例といえるでしょうか。僕が一番好きなシーン、中学でも皆と一緒にいたいから、就職コースに行くというゴードンを、クリスが説得します。進学コースに行け、友達のために自分の可能性を狭めるなと。
ここで彼は、「僕が父親だったら君に就職コースに行くなんて言わせないのに」といいます。親が埋めない隙間を埋めようとしてくれているのです。後の親に愛されていないと嘆くゴードンをなぐさめるシーンもそうでしょう。また逆に、家庭の事情からの不条理に涙を見せ、将来を悲観するクリスを励ましたのはゴードンでした。
彼らは家庭に問題を抱えておりそもそも頼ることができなかったため、人並み以上に大きな隙間を自分の中に抱えていました。その大きな隙間を埋め合うことにより、際立った友情が生まれたのでしょう。心の隙間が大きいほど、埋めてくれた存在の重みも増すのです。
人によってはこの対象は恋人かもしれません。少なくない人が、中学から高校にかけて、お互いに完全に依存し合うような、支配し支配されるような恋愛を経験しているのではないでしょうか。

成長とは、自分の隙間を埋めること

この映画を印象深くする要素の一つは、濃密な冒険の後さらっと触れられるゴードンと3人のその後でしょう。テディとバーンは、学校で顔を合わせるだけの存在になります。クリスは友達だったようですが、事件で亡くなる記事の前10年以上会っていなかったといいます。彼らのキラキラした友情は、どこに行ってしまったのでしょう。それは僕らの経験に似ていて、安っぽい友情物語よりよっぽどリアルに見えます。僕らは別々の道を歩んでいくのです。
そしてそれは、決してネガティブなことではないのです。それは成長の証、彼らが自分の進むべき道を見つけた証なのですから。

僕らは、多くの経験と葛藤を経て、自分を確立していきます。どんな場面でも自分で考え自分で決める力を養っていきます。自分にぽっかりと空いていた大きな穴は、徐々に自分自身で埋まっていきます。その穴を埋めたとき、初めて僕らは自由になり、その自由に耐えることができ、そして新しいことを始めることができるのでしょう。それは自分の穴を埋めていた何かから自由になり、自分を表現する何かへの自由を求め始めるときです。
もしかしたらある人は、別の代わりになる何かでその穴を埋めてごまかしてしまうのかもしれません。それは会社かもしれないし、新しい恋人かもしれないし、宗教かもしれません。

映画に話を戻すと、彼らの冒険は自分では埋めきれない隙間を友達が埋めて、少なくともそのとき進むべき方向性を見いだす経験だったのだと思います。当然一日や二日の冒険で、自分は確立できません。しかし友達の助けを借りて方向性を見いだし、その進む過程で彼らは自分の隙間を埋めることができたのでしょう。
クリスはゴードンの言葉に決心し、街を出て最終的には弁護士になります。ゴードンは、君には才能があるというクリスの言葉を支えに、物書きになります。おそらく、バーンは家庭で満たされており、健全に成長して新しい家庭を築き、テディは自分の隙間を埋めていた軍隊に入れず、自分を見失ったのではないでしょうか。

友情は去り、それでも残るもの

では彼らの友情は、一夏の思い出として単なる酒のつまみに過ぎなくなってしまうのでしょうか。もちろん、小説になり、大ヒットした映画になったわけですが、それだけではないはずです。感謝の気持ち?それは人の感情の中では素晴らしく長持ちで人を変えるものかもしれませんが、もっと他に残るものはないでしょうか?

僕は、もっと端的に、友情は形を変え彼らの中に永遠に残るだろうと思っています。それは、「彼ら」の一部が友人で構成されるようになるということです。
僕らは「自分」という存在を当然のものとして捉えがちですが、それはひどく曖昧なものかもしれません。以前は誰かのものだったビンテージの皮ジャンを、宝物として、まるで「自分」の一部のように考えることがあります。同様に、周囲の大人、本、そして友人の考え方、意見を自然と「自分」の中に取り込みます。そして、いつしかそれを「自分」の考えだと思い始めます。僕らは「自分」の隙間を埋めてくれた何かを、勝手に「自分」という認識でラッピングし、それが外からきたことを忘れてしまっているだけなのかもしれません。

12歳の友達は超えることができない。それは、彼らが僕らの一部で、僕らはもう、無邪気に新しい友人を自分の中に取り込むことはないからかもしれません。
それは残念なことかもしれないし、前に進むということなのかもしれません。でも僕らはまだ誰かの、子供たちの中に入り込む可能性を多分に持っているのです。それを意識したとき、僕らはどう子供と接していくべきなのでしょうか?